マディ・ウォーターズとクラークスデイル 世界の音楽聖地を歩く第20回[最終回]

コラム | 2016.12.18 15:00

桑田英彦 世界の音楽聖地を歩く 第20回

TEXT・PHOTO / 桑田英彦

ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトンはじめ、こういったロック・レジェントたちにもっともカバーされているアーティストといえば、ロバート・ジョンスン、そしてマディ・ウォーターズである。ミシシッピ・デルタが生んだブルースの2大巨頭だ。『スウィート・ホーム・シカゴ』『ラブ・イン・ヴェイン』『クロスロード』(ここまでロバート・ジョンスン)、『フーチー・クーチー・マン』『マニッシュ・ボーイ』『ローリング・ストーン』『ガット・マイ・モジョ・ウォーキン』(ここまでマディ・ウォーターズ)などは、ブルースの傑作として語り継がれるだけでなく、ロック・クラシックスとしても世界中のロック・ファンにも愛されている。一説によると、ロバート・ジョンスンの奏法をエレクトリックで演奏したのがマディ・ウォーターズのスタイルだとされている。マディはこのスタイルを引っさげてシカゴに向かい、シカゴ・ブルースの全盛時代をリードした。その波はアメリカよりもむしろイギリスの若者を惹きつけることになり、若き日のミック・ジャガー、キース・リチャーズ、エリック・クラプトンなどを大きくインスパイアしたのだ。

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マディ・ウォーターズの本名はマッキンリー・モーガンフィールド。ローリング・フォーク郊外のミシシッピ川に沿った小さな集落のアイザッキーナ・カウンティで生まれた。1913年4月4日生まれとされているが、’14年説、’15年説もあり、いずれの年なのか定かではない。上の写真はマディが生まれた家のレプリカで、これは現在ローリング・フォークの町の中心地にシンボリックに展示されている。毎日川の中で泥んこになって遊んでいた彼に、”Muddy Waters”というニックネームをつけたのは祖母のデラ・グラントである。3歳の時に母を亡くしたマディは、クラークスデイル近郊のストヴォール・プランテーションで働く祖母に引き取られた。幼少の頃から厳しい畑仕事を手伝い、そんなマディの心の支えになったのがブルースだった。このプランテーション時代にサン・ハウスやロバート・ジョンスンの奏法を身につけたのである。

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ハイウェイ61号線はブルース・ハイウェイとして有名で、沿線の小さな町にはブルースマンの壁画がたくさんある。圧倒的に多いのはロバート・ジョンスンとマディの壁画で、当時の演奏スタイルを垣間見るようで興味深い。20世紀前半のブルースマンの収入のほとんどは、ストリート・シンガーとして稼ぐチップがほとんどで、週末になると沿線には多くのシンガーが立ち、ブルースやゴスペルを歌って収入を得た。リーランドという町にある61号線と10号線の交差点は、もっともチップが稼げる場所と評判になり、周辺から多くのブルースマンがやってきた。ちなみにこの当時のリーランドの市長はジョニー・ウィンターの父親で、自身もサックスとギターを演奏するローカル・ミュージシャンだった。

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マディが幼少時代から1943年にシカゴに向かうまで暮らしたクラークスデイル周辺には、ブルースの歴史に重要な役割を果たした場所が数多く点在する。上の写真のドッカリー・ファームは、「ブルースが生まれた場所」として知られるブルースマンの聖地である。1895年にウィル・ドッカリーによって設立された大規模なプランテーションで、チャーリー・パットンは約30年間に渡ってここを拠点に演奏活動を続けた。ハウリン・ウルフ、ウィリー・ブラウン、トミー・ジョンスン、後にステイプル・シンガーズで大成功を納めるポップス・ステイプルなど多くのブルースマンを輩出し、敷地の中心には”BIRTHPLACE OF THE BLUES”と記されたマーカーが建っている。オーナーのウィル・ドッカリーはドッカリー・ファームの住人たちのために「オールナイト・ピクニック」と名付けたライブ・イベントを定期的に開催し、クラークスデイルからはマディなども駆けつけ、歌と演奏で大いに盛り上がっていたという。チャーリー・パットンの子孫やドッカリー・ファミリーは今でもこのプランテーションで暮らしており、当時の施設もそのまま残されている。

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カーネギー・パブリック・ライブラリーによって1979年に設立されたデルタ・ブルース・ミュージアムは、クラークスデイルのシンボルであり、ミシシッピ州の歴史的ランドマークに指定されている。ミシシッピ・デルタ出身のブルースマンたちのメモラビリアが数多く展示され、ハイライトはもちろんマディ・ウォーターズである。上の写真のクラシックな車は1939年フォード・デラックスで、1941年に行われた米国国会図書館のフィールド・レコーディングの際に、マディが働いていたストヴォール・プランテーションに派遣された研究家、アラン・ローマックスが運転していた車だ。これがマディ初のレコーディングとなり、録音された自分の歌とギターを聴いたマディは予想以上に刺激を受け、ブルースマンとして生きていく決心をしたのである。キャンディアップルにリフィニッシュされたフェンダー・テレキャスターは、マディが1950年台後半から1983年に亡くなるまで使用した愛機だ。古いマディの映像を観るとメイプルネックのブロンド・テレキャスターを使用しているが、1960年にローズネックに変更した際にボディ・カラーを変更し、マディのシグネチャー・モデルとなった。

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かつてはクラークスデイル郊外のストヴォール・プランテーションの敷地内(写真上)に残っていたマディが暮らしていた小屋(写真上)は、現在デルタ・ブルース・ミュージアムに保存されている。空き家になり荒れ果てていたこの小屋は、1980年代になるとマディの記念碑として世界中に知れ渡り、多くのブルース・ファンがこの場所を訪れるようになった。ZZトップのビリー・ギボンズはこの小屋を保存するために寄付を募り、2001年にこのミュージアムに保存されたのだ。前述のアラン・ローマックスはこの小屋にマディを訪ね、1941年’42年の2回、ポータブルな録音機をセットしてマディの演奏を計14曲レコーディングした。27歳の時のマディの際立ったパワーが記録されている。そして1943年、意を決したマディはシカゴに向かい、黄金のキャリアを築いていくのだ。

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クラークスデイルに2001年にオープンした「グランド・ゼロ・ブルース・クラブ」。オーナーのひとりは、ミシシッピ・デルタ出身のハリウッド・スター、モーガン・フリーマンである。グランド・ゼロとは爆心地という意味で、クラークスデイルは世界中のブルース・ファンから「ブルースのグランド・ゼロ」と呼ばれてきた。これがクラブ命名のきっかけである。ライブ演奏は水曜日から土曜日までで、それ以外の日はレストラン&バーとしての営業だ。クラークスデイルには多くのブルース・クラブがあり、アメリカ国内のみならず、ヨーロッパからの観光客も多く訪れる。昼間は周辺のブルースゆかりの場所やミュージアムを見学し、ディナーの後はブルース・クラブのはしごが定番コースである。

桑田英彦(Hidehiko Kuwata)

音楽雑誌の編集者を経て渡米。1980 年代をアメリカで過ごす。帰国後は雑誌、エアライン機内誌やカード会員誌などの海外取材を中心にライター・カメラマンとして活動。ミュージシャンや俳優など著名人のインタビューも多数。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イタリア、ハンガリー、ウクライナなど、海外のワイナリーを数多く取材。著書に『ワインで旅する カリフォルニア』『ワインで旅するイタリア』『英国ロックを歩く』『ミシシッピ・ブルース・トレイル』(スペースシャワー・ブックス)、『ハワイアン・ミュージックの歩き方』(ダイヤモンド社)、『アメリカン・ミュージック・トレイル』(シンコーミュージック)等。