渋谷公会堂物語 〜渋公には伝説という魔物が棲んでいる〜 第4回 語り手:田家秀樹(音楽評論家)

コラム | 2018.05.02 19:00

提供:渋谷区

第4回 語り手:田家秀樹(音楽評論家)

田家秀樹さんは、1970年代から現在に至るまで、様々な音楽のライブを見続け、またその時々のトップ・アーティストたちにインタビューしてきた。もちろん、渋谷公会堂でも、数多くの歴史的、あるいは伝説的なライブに立ち会ってきたはずだ。そういう田家さんのなかでは、渋谷公会堂というホールはどんなふうに意識されているんだろうか。田家さんがキャリアをスタートさせた、新宿からの目線でまずは語り始めてもらおう。
──田家さんにお話をお聞きしたいと思ったのは、新宿のタウン誌からキャリアを始められた方だし、元々中央線沿線が生活圏だったんですよね?
そうですね。高校は吉祥寺だし。
──つまり、新宿文化圏の方だというイメージがあって…。
そうです。まったく、その通りです。
──その田家さんから見て、そもそも渋谷公会堂というホールはどういうイメージだったのかな?と思ったんです。
そんなに強い印象がなくて、「新宿プレイマップ」という新宿のタウン誌をやっていて、当然新宿が拠点でしたから、渋谷は言ってみれば新宿よりも格下。もっと言えば、田舎という感じでした。せいぜい話題になるのは、ジャン・ジャンと、それに並木橋のところに天井桟敷があったくらいでね。だから、渋谷というと天井桟敷の印象が強かったのかな。アングラ・シーンのメインはやっぱり新宿で、新宿に入ってこれない人たちが渋谷で何かやってるという印象でした。ジャン・ジャンにしても、アンダーグラウンドなスペースだったから、メジャーなコンサートの街という印象は皆無でしたよね。
──その時期に渋公で見たコンサートで何か印象に残っているものはありますか。
ほとんど印象になくて、唯一憶えているのはユイ音楽工房が年末に「来年もよろしくコンサート」というのをやってたんですけど、それが渋公だったんです。(南)こうせつさんとかイルカとか(山本)コータローさんとかが出てて、でも(吉田)拓郎さんはいつも欠席してたっていう(笑)。いつもとは言っても、2回か3回しかやってないのかもしれないけど。ユイも最初は新宿だったんです。71年11月に新宿2丁目の酒屋さんの2階でスタートしたんですけど、それが75年に原宿に引っ越したんです。原宿の表参道の交差点にあったオリンピア・アネックスというビルですね。その交差点の向かい側がセントラル・アパートで浅井慎平の事務所や糸井重里の事務所があった、雑誌カルチャーや広告カルチャーのリーダーたちの拠点だったところですよね。
──その交差点から青山通り方向に少し下って路地を入ったところに、拓郎さんの曲でも歌われているペニーレーンがあったんですよね。
そうそう。それでユイは原宿/渋谷を中心に動くようになって、後藤(由多加)さんは渋公でコンサートをやったわけですよね。それから、僕は行ってないんですけど、69年8月29日に渋公でカレッジ・ポップス・コンサートというのがあったんです。それは、北山修さんが司会で、当時のカレッジ・ポップスの人がいろいろ出たんですけど、それをプロデュースしたのが新田和長さんなんです。この話は新田さん自身から聞きました。新田さんが東芝音楽工業に入って1年目で、新入社員なりに自分にできることをやらなきゃいけないということで、彼はザ・リガニーズのメンバーだったから、そういうカレッジ・ポップスの人たちを集めてコンサートをやるというのは、上の世代の人にはできないことだろうと思ってやった、と。それで、出演者のオーディションをやったらRCサクセションが来たっていう。ちなみに、そのコンサートの客席には、当時高校生だった、オフィスオーガスタの森川(欣信)さんもいたそうです。森川さんはそこで初めてRCを見たんだそうですが、そのコンサートになぜ行ったかというと、ザ・フォーク・クルセダーズのマニアだったからなんです。新田さんは、そのコンサートでフォークルの再結成を仕組んだけど叶わなかったというエピソードも残ってるんですけどね。でも、なんで渋公でやったんだろう、って今頃言ってる(笑)。
──69年と言えば、新宿文化が最も華やかなりし頃ですよね。
そうですよね。69年の新宿というと、9月に第1回ジャパン・ロック・フェスティバルというのが厚生年金会館でありました。それは内田裕也さんプロデュースで、その客席には中学生の高見沢(俊彦)もいたっていう(笑)。当時はロックも新宿だったんですよね。
──先日、松本隆さんのインタビューを読んだら、「かっこいい人はみんな新宿にいた」と話されていたんです。
彼らがやってたエイプリル・フールというバンドは、デビュー前に、パニックというディスコでライブをやってたんです。花園神社の横の、地下にあったディスコです。
──青山で生まれ育った松本さんでさえもそういうふうにおっしゃるということは、やっぱり70年代までは圧倒的に新宿だったんだなと思ったんです。
そう、新宿でしたね。渋公が注目されるようになるのはPARCOができてからじゃないかなあ。それまでの渋谷の中心というと東急デパートで、文化的な場所といえば東横劇場くらいです。そう言えば「ヘアー」(注:日本初のロックミュージカル)を見たのは東横劇場ですけど、"なんで、こんなところでやるんだろう?"と思ったのを憶えてますよ。劇場というくらいで、普段はお芝居とかやってるところで、いわゆるサブカルチャーとは関係ないところでしたからね。
──渋公については、みなさん「ロケーションが良くて…」ということを言われますが、東横劇場のことを思えば渋公はずいぶん駅から遠いですよね。坂を上らないといけないし。
遠いですよ。だから、それをつないだのが、PARCOなんじゃないですか。
──PARCOの開業は1973年だそうです。
その頃から、新宿の時代が渋谷の時代になっていくんですよ。「新宿プレイマップ」が終わったのも72年です。72年というのは連合赤軍事件のあった年で、それまでの新宿が持っていたアンダーグラウンドなサブカルチャーが終わった年なんですよ。それで、新宿から文化が中央線沿線に拡散していくんですけど、例えば最初のロフトが烏山にできたのが71年で、西荻窪のロフトが73年、荻窪ロフトが74年かな。ということは、ロフトができるのとPARCOができたのが同じ頃ってことですよね。そこで、「新宿のアングラ的な文化はもういいよね」という人たちが渋谷に行ったような気がします。で、PARCOを中心にしていろんな人が集まるようになり、その坂の上にあった渋公も脚光を浴びるようになったという流れなんじゃないですか。
──その時期の渋公のコンサートで何か印象に残っているものはありますか。
それが、サンプラザと新宿厚年はいっぱい憶えてるものがあるんだけど、渋公は思い出せないんですよ。そもそもあまり行ってなかったということなのかもしれないですけど。
──例えばこの連載の序章に登場した中西さんは、84年の浜田省吾の渋公3デイズで渋谷公会堂というホールを意識したと話されているんですが、田家さんもそのコンサートはご覧になってますよね。
そうですね。その前の年にも浜田省吾は渋公をやってるんです。それが、彼の事務所「ロード・アンド・スカイ」の最初のツアーなんですよね。でも、そうやって思い出していくと、79年11月の渋公は憶えてますね。拓郎さんが篠島をやった次のツアーの渋公です。それは強烈に憶えてます。篠島のオールナイトの熱気がホールに持ち込まれたという感じで、ホール・コンサートとは思えない、興奮が爆発しそうなコンサートだったですね。
──その翌年にも拓郎さんは渋公をやってるし、83年、84年には浜田さんが渋公でやってますから、やはり80年代に入ると田家さんも渋公に行く機会が増えていったんじゃないですか。
そうみたいですね(笑)。渋谷はLIVE INNもありましたから。
──その頃には、TAKE OFF7やegg-manを振り出しにして、LIVE INN、青年館、渋谷公会堂、そして日本武道館であがり、という「ロックすごろく」みたいなことが言われていましたが、そのことを田家さんが意識したのはいつ頃ですか。
東横劇場で「HEADZ」というイベントがあって(85年7月8日)、そこにエコーズとバービーボーイズを見に行ったんです。メインはエコーズで、バービーはいわゆるオープニング・アクトみたいな扱いでした。僕もエコーズを見に行くつもりで出かけたんだけど、その日初めて見たバービーのほうが全然良くて、"バービーってすごいな"と思ったライブだったんです。そのときに杏子さんが「公園通りを上っていく!」と言ったんですよ。かっこいいなと思いましたね。ステップアップしていくサクセスロードみたいなものとして、公園通りを僕のなかに意識づけたのはあのひと言です。
──バービーボーイズは、その年の間に、その宣言を実現したんじゃなかったですか。
この間、レベッカの渋谷公会堂ライブの完全版がDVDで出たでしょ。その映像の試写会みたいな形でトーク・イベントがあったんですよ。その司会を頼まれて、それでその渋公は確かに見たなと思ったんだけど、それがレベッカを見た最初だったかどうか確認しようと思って、85年の手帳を調べてみたんです。そしたら、12月は、25日がレベッカの渋公、24日はBOØWY
、それで23日がバービーボーイズの後楽園ホールだったんです。まだ上って行けてない(笑)。
──杏子さんの宣言から半年後ですね。
ちなみに、24日のBOØWYの渋公は、僕は行ってなくて、その日はRCの武道館に行きました。その理由は2つあって、当時の僕の気持ちとしてはRCのほうが見たかったということと、もうひとつはこの日のBOØWYの渋公はインビテーションが一切なかったんです。評論家で見てるのは、多分4人くらいしかいないはずです。「宝島」と「PATi PATi」と「B-PASS」、それに「BEST HIT」かな。

1985年12月の田家さん手帳。日々、豪華ラインナップのライブが名を連ねています

PROFILE

田家秀樹

1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。
1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、
「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て、音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。

NACK5「J-POP TALKIN’」(土曜22時〜22時30分)
FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」(月曜21時~22時)パーソナリテイー。
「毎日新聞」「B-PASS」「ワッツイン」などでレギュラー執筆中。

日本放送作家協会会員。

日本のロック・ポップスを創世記から見続けている一人。

オフィシャルホームページ

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