1975年に森村誠一が『野性時代』(角川書店)に連載した長編推理小説で、第3回角川小説賞受賞に輝いた『人間の証明』は、単行本・文庫本化で大ベストセラーを記録。1977年に製作・角川春樹、監督・佐藤純彌、主演・岡田茉莉子、松田優作で映画化され、同年10月8日に公開。配給収入22億5000万円というこの年の興行ベストテン第2位にランクされる大ヒットとなった。
角川プロデューサーの意向で、プロ・アマ問わず賞金500万円でシナリオを公募という日本映画史上初の試みを敢行した結果、大ベテラン脚本家の松山善三の応募作が入選。同様に、映画本編の中でストーリーのカギとなる黒人青年ジョニー・ヘイワード役も公募が行なわれ、「20~30歳のやや細身の男性、身長165~175cm、多少の英語ができること」に該当する310名の応募者の中から抜擢され、賞金(出演料)100万円を獲得したのがジョー山中だった。
ジョー山中こと本名・山中明は、1946年9月2日アフリカ系米国人の父と日本人の母の間に横浜で生まれた。16歳の時に金平ジムの金平正紀会長にスカウトされボクサーの道に。「城アキラ」のリングネームでプロデビューを果たすが、64年に映画『自転車泥棒』(東宝/監督・和田嘉訓)に安岡力也、真理アンヌと出演したことがきっかけとなり、横浜のジャズ喫茶でシンガーとして活動を始める。66年にはGSの「4・9・1(フォー・ナイン・エース)」にツイン・ヴォーカルの片割れとして参加。日本人ばなれした“声”とパワフルなシャウティングで注目を集めた。
その後、ザ・カーニバルズを経て69年にフラワー・トラヴェリン・バンド(FTB)結成に参加。70年にカナダ遠征も果たし、不世出のロック・ヴォーカリスト「JOE」として大きく開花していった。73年にFTB解散後は初ソロ・アルバム『JOE』(74年)を発表。一時期、単身ニューヨークに渡り現地での活動を模索していたが、75年夏には第一回『ワールド・ロック・フェスティバル』のために、元マウンテンのフェリックス・パパラルディや日本の名うてのミュージシャンたちと共にスペシャル・バンドを組んで各地を廻っている。さらに77年初頭には、FTB時代の名曲「メイク・アップ」が日立キドカラーテレビのCMに起用され話題を呼び、同年4月にシングル・カット(オリコン77位)。伝説のFTBに再びスポットが当てられ、ジョー山中の動向にも関心が集まる。そんな矢先での映画出演だったのである。
ロック・シンガーとしてのキャリアを活かして主題歌も担当。劇中で重要なポイントとなる西條八十の詩「帽子」を角川春樹が英訳し、ジョーが歌詞に仕上げたものに、本編の音楽監督である大野雄二が曲を付けて誕生した主題歌「人間の証明のテーマ」は、映画公開の2カ月前となる1977年8月10日にリリースされた。同曲をバックに「帽子」の一節を読み上げる印象的なナレーションを用いたスポット広告が、 映画公開前からテレビ、TV・ラジオで大量に流されたことも功を奏して、オリコン・チャート第2位にランクされる大ヒットを記録した。
それまで知る人ぞ知る存在だったジョー山中の名が広く世間一般に認知され、大ブレイクする記念碑的作品となったわけが、発売直後に大麻取締法違反容疑で逮捕。「人間の証明のテーマ」がテレビのベストテン番組で1位になったことを知ったのは留置場の中であり、もちろん彼が番組に出て歌うことも無かった。半年以上に亘る活動停止を余儀なくされるものの、翌78年5月30日には日本武道館で初のソロ・コンサートを開催。アンコールで「人間の証明のテーマ」を熱唱し、約1万人のオーディエンスを魅了した。この模様は同年8月25日にリリースされたライヴ・アルバム『武道館ライヴ』でも聴くことができる。まさにジョー山中絶頂期の名唱と言えるだろう。
79年には角川映画『戦国自衛隊』のサウンドトラック制作に参加し、自ら作詞・作曲を手がけた挿入曲「もうなくすものはない」「GOIN' HOME」の他、エンディングテーマ「ララバイ・オブ・ユー」(作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童)の計3曲を歌唱。特に映画『人間の証明』の中でジョニー・ヘイワードの子供時代を演じたジョーの長男・山中ひかりへの想いを託しと思われる「ララバイ・オブ・ユー」はシングル・カットされ、名バラードとして現在も人気が高い。
80年代は、映画『戒厳令の夜』で音楽監督を務めた他、ロック・オペラ『ハムレット』(80年)、映画『座頭市』(89年)に出演し活動の領域を拡げる一方、ジャマイカでザ・ウェイラーズとの共演アルバム(82年)を制作するなど、音楽的にも新境地を開拓していった。90年代にはチャリティ・コンサート、ボランティア活動に積極的に参加し、ほぼ毎年のようにカンボジア、ギニア、ベトナム、ボスニア等を訪問。難民キャンプ慰問や文化交流を続けた。2007年にはFTBのオリジナル・メンバーが揃って再結成。新作アルバムのレコーディングやツアー、海外公演も成功させ脚光を浴びたが、2011年8月7日、肺がんのため逝去。享年64歳だった。