渋谷公会堂物語 第16回 語り手: 江口譲二(interblend inc.)フライング・キッズ、19(ジューク)、コブクロのステージ制作を手がけてきた氏が語る、“帰る場所としての渋公”

コラム | 2019.08.22 18:00

いつでも渋公が物差しというか道しるべになった

──19(ジューク)を担当したのは1999年からだそうですね。
ディスクガレージの担当者から連絡があって、音を聴かせてもらってすごくいいなと思ったので、その年の7月のON AIR EAST(現TSUTAYA O-EAST)からやらせてもらいました。そのON AIR EASTは即完したんですけど、秋のツアーも東京は渋公1日だったのが2デイズにしたり、地方の公演も全部、当初予定していた会場からもっとキャパの大きい会場に変えないといけなくなったっていう。すごい勢いでしたね。
──となると、さっき言われた渋公の通り過ぎ方が大事になってきますね。
そうなんです。あまりに上昇曲線が急すぎるので、僕らとしては怖いんですよ。だから、その次の年のツアーも渋公を2デイズやって、その後に武道館をやって、またその次の年のツアーは、普通だったら武道館をやるんでしょうが、敢えて渋公2デイズと大宮や横浜の関東近郊にしたんです。彼らは、そのツアーの最中に解散が決まったので、それだけ渋公にこだわったことが生かされるような状況は生まれなかったんですが、僕らとしては早い時期から“帰る場所を作っておこう”というつもりで渋公をブッキングしていました。
──そうしたこだわりを持って臨んだ19(ジューク)の渋公ライブで、印象に残っているステージはありますか。
99年の追加の渋公は映像にもなってるんですけど、あれはいいライブだったと思います。クリスマスということで326くんが登場したこともあって印象が強いのかもしれないですが、それにしてもいいライブでしたよ。この時期は、周りの期待も大きかったんですけど、それに見合うというか、それを上回る速さで本人たちが成長していきましたから。
──江口さんたちスタッフ・サイドが「渋公をホームにする」という意識でいろんな組み立てを進めても、アーティストがそれを可能にするだけのライブをやって見せないと、江口さんの思いはそれこそ「絵に描いた餅」になるわけですが、フライング・キッズにしても19(ジューク)にしても、江口さんの思いを形にできるだけのライブ力を持っていたということなんでしょうね。
それは、僕らがいくら強い思いを持っていてもお客さんが認めてくれなかったらダメなんですが、それにしても“彼らはライブハウスのアーティストではない”というふうには思っていました。それに、現実として活動を続けていくなかで渋公が埋まらないということになったかもしれないですけど、そうなったら“また渋公をやれるようになるにはどうすればいいか?”ということを考えればいいわけで、いつでも渋公が物差しというか道しるべにはなりますよね。
──コブクロは、資料によると東京での初めてのライブも、初めてのワンマンも渋公なんですね。
イベントは2000年の大晦日のディスクガレージのイベント、“LIVE DI:GA”、ワンマンは2001年9月の 「ストリートライブ EXTRA」ですね。その時は、僕はまだ担当じゃなかったですけど。
──いつから担当したんですか。
2002年の1月からです。2001年の12月まで19(ジューク)の担当をやってましたから。
──コブクロのライブの第一印象はどんな感じでしたか。
僕が初めて見たのはON AIR WEST(現TSUTAYA O-WEST)でやったコンベンションだったんですけど、まず思ったのは歌がめちゃくちゃ上手いねということでした。それと、“この垢抜けなさは何だろう?”と思ったのも憶えてます。
──ステージ制作の立場からすると、歌がめちゃくちゃ上手いということが確認できたところで、まず大丈夫と思いますよね。
そうですね。ただ僕は、垢抜けなさがすごく気になったんです。というのは、上手い人はたくさんいますから、その中から抜け出してくるにはやっぱり何か華がないとダメなんですよ。だから、そこが最初の課題になっていくんですよね。
──2001年には渋公2デイズ、2002年にはNHKホール(東京)を実施しています。
2001年の渋公も、2002年のNHKホールも、実は売り切れなかったんですよね。で、その年の秋に彼らはもう1回ツアーをやって、大阪は初めて大阪城ホールでやったんですが、そのツアーでは東京はやらなかったんです。それは、お客さんに“ツアーをやれば、必ず東京でもやる”と思わせちゃいけないと思ったので。
──なるほど。2003年のツアーは“石の上にも2003年”というタイトルだったんですが、渋公というか東京の公演については、単なる駄洒落以上に満を持して臨む感じが強かったんですね。
そうですね。確かに、そういう感じがありましたし、狙い通りそのツアーの渋公はソールドアウトしました。
──その時が2デイズ公演で、年末にもまた渋公で2デイズです。
その時期は、「もっと大きなところでやろうよ」と言われるまで、渋公にこだわってやろうと思ってましたし、三郷、川口、座間、厚木などの郊外でもやって、来たるべく渋公の先に待つ「武道館」を見据えて足場固めをしていましたね。

渋公の客席はライブハウスの感じだった

──江口さんの中では学生時代から“聖地”のイメージがあったそうですが、なぜそんなふうに言われるようになったんだと思いますか。
80年代、90年代で考えると、東京では2000人くらいのキャパのホールが、さっきも話した新宿厚生年金会館と中野サンプラザ、それに渋谷公会堂と3つあったわけですが、その3つを比べるとキャパは渋公が一番多いんだけど、敷地面積は一番狭いんですよ。だから、一人分の面積が狭いということですよね。言ってしまえば、ギュウギュウ詰めだったんですよ。特に改装前は。つまり、客席はライブハウスの感じだったんですよね。それが一番の理由なんじゃないかなと僕は思います。
──最後に、新しい渋谷公会堂がもう出来上がって、ニューオープンが迫ってきていますが、その新しい渋谷公会堂にどんなことを期待しますか。
昔の「渋谷公会堂」というネームバリューというか存在感を生んだのは、建物自体の特徴に加えて立地という要素が大きかったと思うんです。で、その条件は新しい渋公も変わっていないわけですよね。おかげで、もうすでになかなかブッキングできない会場になってますが(笑)、その同じ場所で、昔と同様、ホールなのにライブハウスのように暑苦しい感じを引き継いでいてくれるといいなと思いますね。

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