布施明、デビュー55周年ライブ開催間近!「この道は良かったな」と振り返るのは早いかな、もう少し先に行きたい

インタビュー | 2021.04.14 18:00

──布施明さんは昨年、デビュー55周年を迎えました。今回、『AKIRA FUSE 55th ANNIVERSARY LIVE TOUR~陽はまた君を照らすよ~』の追加公演を開催するにあたり、55年の歴史を振りかえると、布施さんは日本のポップス・シーンにおいて画期的ないくつもの試みをされてきたアーティストだと思います。

去年がちょうど、レコード・デビューして55年なんです。でも実際のところはその前の年、昭和39(1964)年からステージに立っていたので、その時期から不良の生活が始まりました(笑)。私は昭和22(1947)年うまれで73歳になりますが、こんなに長く歌手をやろうとは思っていませんでしたから。

──布施さんが音楽に触れた時期は、いつ頃のことでしょうか。

僕は特に歌を習っていたわけではなく、中学生の時に、友達に誘われてブラスバンドに入ったのが、音楽との出会いです。途中で入ったので、余っている楽器はピッコロしかなかったんだけど、これが難しくて。その後フルートに転向しましたが、どっちも単音楽器でしょ? だから僕はいまだにアンサンブルとかコーラスに憧れるんです。ギターに関しては、高校1年の頃、すごくギターが上手い先輩がいて、「布施君、ギター弾ける?」って聞かれたから、見栄を張って「ええ、もちろん」と言ってしまって(笑)。弾けないっていうのが悔しくてね。それで慌てて近所の質屋に行って、親父さんから一番安いギターを買って、1週間で3コードだけは弾けるようになったんだけど、先輩には大して弾けないことがすぐバレました(笑)。

──その後、「シクラメンのかほり」や「君は薔薇より美しい」などのヒット曲で、ギターを抱えながら歌う布施さんを見ているので、ちょっと意外なきっかけですね。

でも、それが歌を始めるきっかけになったんです。その先輩がラテンのトリオでギターをやっていて、トリオ・ロス・パンチョスのコピーなんかしていた。そこで僕も歌い始めて、いまだにラテンの曲は好きですよ。その後、日本テレビの『ホイホイ ミュージック スクール』というオーディション番組で合格して、歌手になるわけですが。

──布施さんといえば、カンツォーネがお得意な印象があります。

カンツォーネはまだデビュー前、僕がジャズ喫茶などで歌っている頃、ブームになったんですよ。僕もガラガラ声のニコラ・ディ・バリなどは好きで、「青春に恋しよう」はよくステージで歌っていました。カンツォーネといえばイタリアのサンレモ音楽祭ですが、その頃、ボビー・ソロが「ほほにかかる涙」で優勝したんです。それを日本のプレスリーと呼ばれた、ほりまさゆきさんがカヴァーして。ボビー・ソロも「イタリアのプレスリー」と呼ばれていたからそんなつながりでね。翌年、またボビー・ソロがサンレモで優勝したんです。その曲「君に涙とほほえみを」を再びほりさんが歌う予定でしたけど、体を壊されてしまって、歌手を辞めてしまった。でも、サンレモ優勝曲だし、誰かに歌わせなきゃ…となったところで「そういえば、ジャズ喫茶で歌っている、やたら声がでかいやつがいるぞ」という話になり、それで僕が選ばれたんです。

──それが布施さんのデビュー曲になるんですね。布施さんといえば、洋楽のカヴァーも大変お得意で、「ラブ・ミー・トゥナイト」や「マイ・ウェイ」など、布施さんの歌で知った洋楽も多いです。

僕が歌手を始めた頃は、アメリカン・ポップスのブームでした。でも、東京オリンピックの頃から、ビートルズが出てきて、ポップスの世界がガラッと変わりましたから。当時、ビーチ・ボーイズがやっていたアメリカン・ポップスと、ビートルズのサウンドを比べると、プロとアマチュアぐらいの差がありますよ。でも、ビートルズの「粗さ」が良かったんだよね。彼らがやった「ベサメ・ムーチョ」なんか聴くと、演奏とか本当にひどいんだけど、でもそこが凄く魅力的だったんです。そんな彼らが音楽シーンを変えていった。だけど、僕が今でも洋楽ポップス系のシンガーでいたい、と思っているのは、その頃の悔しさがあるのかもしれない。

──ビートルズによって変わってしまう前の、洋楽の良さですよね。

そう。僕はその頃からずっと一緒に仕事をしていたピアニストの方に、「布施君、洋楽のポップスから離れてはだめだよ」とずっと言われていたんです。当時はもう歌謡曲を歌っていたけれど、コンサートでも半分は洋楽のカヴァーを歌っていました。彼はもう亡くなりましたが、10年ほど前にジャズ・ライブを開催した時も聴きにきてくれて、すごく喜んでくれた。僕のなかにはいまだにそういう思いがあるんです。

──布施さんの洋楽カヴァーの代表作といえば、やはり「マイ・ウェイ」ですが、これをなぜ布施さんが歌うことになったんですか。

僕が所属していた渡辺プロに、中島淳さんという大先輩の歌手がいて、とても可愛がってもらったんです。中島さんは自分で「マイ・ウェイ」に日本語詞をつけて歌っていたんですが、その後お亡くなりになられて。それで僕が、中島さんのお名前を残したいという気持ちで、「愛すれど切なく」というシングルのB面に「マイ・ウェイ」を入れたんです。ただ、中島さんの書かれた詞は「今、黄昏近づく人生に…」という出だしでしたが、僕はまだその時20代だから、それはさすがに似合わないだろうと思い「今。船出が近づく人生に…」とその部分だけ変えたんです。

──ところで、洋楽といえば、近年、若い音楽ファンの間で話題になっているのが『日生劇場の布施明』という71年のライブ・アルバムで、ニルソンの「うわさの男」やバカラックの「遥かなる影」などを歌われています。この時のメンバーは寺川正興さん、チト河内さん、水谷公生さん、柳田ヒロさんら凄腕メンバーでした。

いろんなことをやっていたよね。彼らは「LOVE LIVE LIFE」というユニットを名乗り、そこにプラスワンで参加したのが僕。『LOVE LIVE LIFE+1』というアルバムも出しましたよ。それがね、たまたま後年、ロンドンの空港にある店で、いきなりそのアルバムの曲が流れてきて、「あれっ、これ、俺の歌だ!」と(笑)。普通にロンドンの空港でなじんでいたんですよ。イギリスって、世界中の変わった音楽をどんどん吸収していくんだ、すごいな、と思いました。ああいうセッションも楽しかったよ。

──もう1枚、『布施明がバカラックに会った時』というアルバムでは、この時代には圧倒的に早かった海外録音、それもバカラックの牙城であるA&Mスタジオで、バカラック作品のカヴァーを歌っているのは驚きです。

この頃、僕もちょっと天狗になっていた時期で、実のところはバカラック何するものぞ、ぐらいの気持ちでした。ロサンゼルスに着いた翌日にもうレコーディングでしたが、スタジオに着くと、ちょうどバカラックがオープンカーでやってきて、当時の奥さんだったアンジー・ディキンソンが運転していたんですよ。それですぐにレコーディングに入ったんですが、奥のいちばん小さいスタジオで、ピアノとベースとドラムだけがいて、3ピースでまず同録で1曲録りました。それが「アルフィー」でしたが、もうその1曲でノックアウトされましたよ。

──レコーディング期間はどのくらいでしたか。

1週間から10日の間ぐらいだったかな。レコーディングを終えて帰る前日、サンタモニカのホテルで、トニー・ベネットのショーをやっていたんです。そこで彼がジャズ・スタンダードの「イエスタデイズ」を歌っていて、それがもう「まだまだ早いよ、甘い甘い…」って僕に言っているように聞こえてきて…。その後、ホテルのラウンジで、軽いお疲れ様会をやったんだけど、そのラウンジでもピアノとドラムとフルートだけの演奏が流れていて、そこでフルートを吹いていたのがハービー・マン。

──なんと贅沢な。

もうそれで完全にノックアウト。その帰国の飛行機のなかで「城ヶ島の雨」を聴いたんですが、そうしたらすごくよくてね、ああ、日本の曲なんて見向きもしなかったけど、いいものだな、と。この曲って4分の3拍子ですが、途中で拍子が変わるんです。日本にもこんな凝った歌があるんだ、こっちの方向性も進めていこうかな、と思ったぐらいです。バカラックとのレコーディング体験は、僕のひとつの転機になった出来事でした。

  • 取材・文

    馬飼野元宏

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