山下洋輔 トリオ結成50周年記念コンサート 爆裂半世紀!

NEWS

2019.09.03NEW

山下洋輔インタビュー記事を掲載!

2019.08.26

DI:GA ONLINEにて山下洋輔インタビュー記事掲載!

2019.08.13

追加ゲストとしてタモリの出演が決定!ゲストからのメッセージも到着!

2019.06.25

「山下洋輔 トリオ結成50周年記念コンサート 爆裂半世紀!」特設ページオープン!
6月25日(火)12:00〜チケット最速先行受付スタート!

2019年、「山下洋輔トリオ」が結成50周年を迎えました。
他に類を見ない圧倒的なフリージャズは、1969年の結成時には、折からの学生運動、アンダーグラウンド・ムーブメントの昂揚の中、絶大なる支持をもって迎えられました。
1974年にヨーロッパ・デビューすると、一躍世界のジャズシーンにその名を轟かせ、79年にはアメリカにも進出しました。
一切のルールに囚われぬフリーな表現は、音楽のみならず演劇、舞踏、美術、文学など、ジャンルを超えて計り知れない影響を与えました。また、筒井康隆、赤塚不二夫、タモリらとの交流を通じ、サブカルチャー・シーンでも勇名を馳せることとなります。
1983年に「山下洋輔トリオ」を解散した後も、山下はもちろん歴代トリオのメンバーはそれぞれ独自の活動を続け、50年後の今日もなお、(早世した武田和命を除き)皆元気に活躍しています。
年末の一日、歴代メンバーが一堂に会し、当時交流のあった仲間たちをゲストに招いて、50周年を祝うコンサートを賑々しく開催します。半世紀に及ぶ「山下洋輔トリオ」の軌跡をたどる、一夜限りの貴重な機会となります。

ARTIST

山下洋輔 (p) ©Akihiko Sonoda

山下洋輔 (p)

なんとあなた、50年ですよ。すごい年月だけど、あっという間だったなあ。あの頃おれは20代後半で、あ、年がばれちゃうけどかまうものか、皆そうなんだからね。こうなったらチャンジー大集合大炸裂パワーをお見せしちゃおうじゃないの。
全国民全世代の皆さま、どうかこの瞬間に是非ともお立ち会い下さい!

山下洋輔

1969年、山下洋輔トリオを結成、フリー・フォームのエネルギッシュな演奏でジャズ界に大きな衝撃を与える。国内外のジャズ・アーティストとはもとより、和太鼓やシンフォニー・オーケストラとの共演など活動の幅を広げる。88年、山下洋輔ニューヨーク・トリオを結成。国内のみならず世界各国で演奏活動を展開する。
2000年に発表した自作協奏曲を佐渡裕の指揮により04年にイタリア・トリノで再演。06年オーネット・コールマンと、07年にはセシル・テイラーと共演。08年「ピアノ協奏曲第3番<エクスプローラー>」を発表。09年、一柳慧作曲「ピアノ協奏曲第4番 "JAZZ"」を世界初演。歴代メンバー総出演の「山下洋輔トリオ結成40周年記念コンサート」を開く。
16年、ウィーン楽友協会ホールで佐渡裕指揮のトーンキュンストラー管弦楽団と共演し、大成功を収める。18年、ニューヨーク・トリオの結成30周年記念アルバム『30光年の浮遊』をリリースし、国内ツアーを行う。
99年芸術選奨文部大臣賞、03年紫綬褒章、12年旭日小綬章を受章。国立音楽大学招聘教授。演奏活動のかたわら、多数の著書を持つエッセイストとしても知られる。
オフィシャルサイト

  • 中村誠一(ts)

    中村誠一(ts)

  • 森山威男(ds)

    森山威男(ds)

  • 坂田明(as)

    坂田明(as)

  • 小山彰太(ds)

    小山彰太(ds)

  • 林 栄一(as)

    林 栄一(as)

GUESTS

  • タモリ

    タモリ

    山下さんは私の恩人です。50周年おめでとうございます。

  • 麿 赤兒

    麿 赤兒

    ©白鳥真太郎

    祝・洋輔!
    讃・トリオ!
    祝・50周年!

  • 三上 寛

    三上 寛

    カン! G7が弾けるから技術があるんじゃないんだぞ。お前の気持ちを、どんな方法でもいいから伝えられれば、それがテクニックという事なんだ』山下さんが言ってくれた言葉。感謝!

ほか

MC

  • 中原 仁

ABOUT

公演名 山下洋輔 トリオ結成50周年記念コンサート 爆裂半世紀!
公演日時 2019年12月23日(月)
開場 17:15 / 開演 18:00
会場 新宿文化センター 大ホール
料金 全席指定
【前売】S席 ¥8,000(税込)/ A席 ¥7,000(税込)
【当日】S席 ¥9,000(税込)/ A席 ¥8,000(税込)
出演者 出演者:山下洋輔(p)
中村誠一(ts)、森山威男(ds)、坂田明(as)、小山彰太(ds)、林 栄一(as)
ゲスト:タモリ、麿 赤兒、三上 寛 ほか
MC:中原 仁
備考 ※3歳以上要チケット
※出演者ならびにゲストは都合により変更になる場合がございます。あらかじめご了承ください。
主催 ジャムライス
共催 (公財)新宿未来創造財団・朝日新聞社
運営 ディスクガレージ
お問い合わせ ディスクガレージ
050-5533-0888(平日12:00〜19:00)

TICKET

一般発売

一般発売日 2019年9月7日(土)10:00〜
チケットぴあ https://w.pia.jp/t/yosuke-pr/
0570-02-9999
Pコード:154-242 ※要Pコード
ローソンチケット http://l-tike.com/
0570-084-003
Lコード:72519 ※要Lコード
イープラス https://eplus.jp/yosuke/
CNプレイガイド 0570-08-9999(10:00~18:00)
新宿文化センター(窓口のみ) 03-3350-1141(9:00~19:00/休館日を除く)

ディスクガレージ先行受付[先着]

受付期間 8月20日(火)18:00~8月27日(火)23:59
※こちらの受付は終了しました。

チケット最速先行受付

ジャムライス 【受付期間】
2019年6月25日(火)12:00~7月5日(金)
※こちらの受付は終了しました。
チケットぴあ 【受付期間】
2019年6月25日(火)12:00~7月7日(日)
※こちらの受付は終了しました。

INTERVIEW

[左]中原 仁、[右]山下洋輔

取材・文/中原 仁
写真/田中サユカ

──1969年、山下さんが療養から復帰されてトリオを結成した時点で、最初からフリージャズの表現方法でやろうと決めていらしたんですか?

山下 最初は、病気する寸前に組んでいたカルテットのイメージがありまして、中村誠一と森山威男と、前のベースの吉沢元治さんとは別の人(注:故杉本敏昭氏)とのカルテットで始めてみたんですが、病気したせいでしょうね、前と同じことを繰り返しやってもつまらない、今の自分の表現が出来ていないと思ってね。それまで僕の中にいろいろなフリージャズがインプットされていて、最初はこういうものに近寄ってはいけないという態度だったんだけれど、ベースの人が就職が決まって抜けて、その後にベースを入れることをためらっていた時に、こういう表現方法があるならやってみようと思って、リハーサルのその場で「ちょっとみんな勝手に音を出してみよう」と言ってやったら、もう一発目の演奏から、これはいいや!となって。その前にジョン・コルトレーンの公演が東京であって(注:66年)、それを誠一は聴いていたし、森山は聴いてはいなかったけど「勝手にやっていいよ」というのが森山のいちばん得意なことだったと分かって(笑)。それでたちまち成立ですよ。

──山下さんと誠一さんは国立音大を、森山さんは東京芸大を卒業されています。アカデミックな音楽の世界を通ってきた方々が、いきなり自由にフリージャズというのは、全く抵抗なく演奏出来たのでしょうか?

山下 だからこそ、だろうね。自分たちが知っている、ありとあらゆる音楽とは別のものをやろうという。だから、なんの真似にも陥らなかったという自負はあるんですよ。

──時代背景もあったのでしょうが、結成の年に早稲田大学のバリケードの中で演奏するなど、当初から従来のジャズシーンとは違う分野での活動が目立ってました。

山下 そうだね。あんなに激しくやるグループは僕らしかなかったわけだしね。今までとは全く違う音楽が出てきて「こいつら、いったい何だ!?」ということだったんでしょう。早稲田大学のバリケードで演奏できたのは田原総一朗さんのおかげでね。テレビ番組の企画として撮ったもので、田原さんは面白いものを撮りたいという人でしょ? 当初は、ゲバ学生がミュージシャンを追い払って、火炎瓶が乱れ飛んで僕たちが逃げまどうという、そういうシーンを撮ろうとしてたんですが、案に相違して、みんなシーンとして演奏を聴いちゃった。それで番組のテーマがすぐに変わって、病気上がりのピアニストが頑張る、女房が肩を揉むという(笑)、そういうドラマになりましてね。

──番組名が「ドキュメンタリー青春」。

山下 そのタイトルで毎週、変な人をとりあげていたんですよ。浅川マキとか三上寛とか。そのうちのひとつだったんです。

──当時から、音楽以外の分野の文化人の方々との交流もありましたね。筒井康隆さんとは、トリオの結成の前からですか?

山下 いや、僕が勝手に筒井さんのファンになっていたんですが、トリオをピットインで始めて、まだ客が集まらない最初の頃から聴きにきてくださいましたね。型紙破りのところを気に入って「面白い」と言ってくださって、演奏が終わると筒井さんと一緒に飲み歩くという、素晴らしい時間が出来たんです。

──50周年記念コンサートのゲストの一人でもある麿赤兒さんは、バリケードでの演奏のライヴ盤『DANCING古事記』をリリースした方でもありますね。

山下 麿さんは、僕が病気する前、唐十郎さんが花園神社に紅テントを立てて状況劇場の公演をやっていた時の役者で、そこで知り合っていたんですよ。それで、僕がトリオで変なことを始めたことも知ってくれて。で、間に作家の立松和平さんがいまして、バリケードでの演奏が面白いよという話になって、麿さんが「ああ、山下なら知ってるよ」と。そんな面白いものがあるならレコードにしちゃえ、ということになったんですね。

──麿さんとの交流は50年以上になるんですね。後に、麿さんが作った暗黒舞踏団、大駱駝艦の公演で山下さんたちが演奏したこともありましたが、その話は先にとっておいて、山下トリオは当初から、ジャズのコンサートやフェスだけでなく、ロックやフォークのイヴェントにも出演していました。資料を読むと72年には「音搦大歌合」に出演。しかも会場は日本武道館!

山下 それもありましたね。しかも出番をあいうえお順に決めちゃえ、ということで、赤い鳥、浅川マキから始まって、僕たちの出番は三上寛の後、吉田拓郎の前(笑)。僕らの演奏を聴いた拓郎ファンの女の子たちがビックリして怒って、本当は「帰れ帰れ!」と言いたいんだけど「帰ってよお」(笑)と可愛い声で言われちゃいました。で、三上寛は僕たちのセットの最後にギターを持って飛びこんできて。

──それが、今回のゲストでもある三上寛さんとの出会いだったんですか?

山下 いや、その前から知り合っていました。で、武道館でも「入っちゃおうかな」と言うので「やれ、やれ」となって、そしてギターを血染めにして。即興でガオー!と言って、わめきまくってました(笑)。三上寛とは、一緒にちゃんとやろうと言って行なったコンサートはないんです。突発的に、彼が踊りこんでくる(笑)。乱入男ですね。

──今回のもう一人のゲスト、タモリさんとの出会いも、この頃ですね。

山下 福岡のライヴの後、ホテルの一室で部屋飲みで打ち上げをやっていた時に、誠一が浴衣を着てゴミ箱をかぶって踊っていたら、それをドアの隙間から見ていたタモリが、これは行けるというので踊りながら入ってきたのが、そもそもの出会いです。誠一がおびき寄せたわけで、誠一に感謝しなきゃいけないんだけど。誠一が話していたデタラメ韓国語よりもタモリのほうが遥かに上手かったということもありまして、デタラメやらせたら、こいつの方が上手いと(笑)。それまで僕たちは誠一が面白くてしょうがなかったんだけど、それを上回る、とんでもないのが現れたという一夜だったんです。僕らが部屋で馬鹿騒ぎしていなかったらタモリとは一生、出会えなかったかもしれないですね。それで、スゴい奴がいるということを、たまり場の新宿の酒場で言いふらして、そしたら酒場の客の人たちが、そいつを呼べ!となってタモリが来て。筒井康隆さんや赤塚不二夫さんもいて、そこでありとあらゆる芸を披露した。それが始まりですね。で、赤塚さんが、こんな面白い奴は東京から帰さないと言って「俺のマンションに住め!」ですからね(笑)。

──話を戻して72年、中村誠一さんが抜けて坂田明さんが入りました。テナーサックスとアルトサックスの違いもあると思いますが、フロントマンが代わったことによって、トリオの音楽の全体像も変化しましたね。

山下 それは当然ありますね。人が一人、代わるわけで。坂田はアルトサックスということもあり、スピード感が増したところもあって。あと、誠一も森山も坂田も、みんな物凄い才能と同時にユーモア精神があっってね。むちゃくちゃクリエイティヴな連中ばっかりが集まってきました。

──坂田さんが入った第2期トリオの時代、74年から毎年、多い時には年2回、ヨーローッパツアーが始まりました。これはとても大きなことだったと想像します。

山下 めちゃくちゃ大きなことでしたね。僕たちをヨーロッパに呼んでくれるマネージャーになる、ホルスト・ウェーバーというドイツ人がエンヤ・レコードを始めた頃でね。ホルストは新宿のジャズバー、DUGの中平穂積さんと仲が良くて、僕らがピットインに出ていた日にホルストがDUGに寄ったら、中平さんが「今日、ピットインに面白いバンドが出てるよ」と言ってくれて、ホルストが聴きにきて初めて僕らに遭遇して、それで喜んだ(笑)。こいつらをヨーロッパに連れて行ったら面白いと思ってくれたんですよ。それが始まりだから、運がいいよねえ。僕がトリオで無茶苦茶にやろうと言って始めて以降は全て、僕が自分から何かをしたいと言って始めたんじゃなくて、何かしらがうまく向こうから寄ってきてくれて、それで面白く転がっていくということなんですね。

──74年のドイツのメルス・ジャズ・フェスティヴァルでの演奏がライヴ盤で出ましたが、そのアルバム『クレイ』を僕は学生時代に聴いて、トリオの演奏はもちろん聴衆の反応も熱狂的で、なんかスゴいことが起きてるなあと身震いしたことを今でも覚えてます。

山下 やるだけやっちゃえと言って演奏して、終わって楽屋でビールを飲んでホッとしてたら「ツーガーベ!ツーガーベ!」というアンコールの声が聞こえてきて、それでまたステージに行って演奏しましたが、本当に予想もしていなかったことです。

──ヨーロッパのフリージャズは、現代音楽の背景もあったのかもしれませんが論理的、構築的で、山下トリオのフリージャズがそれとは異なる方向性だったことも、ヨーロッパの聴衆に新鮮に響いたのかもしれませんね。

山下 とにかく勝手に思い切りやることが原則でしてね。その場でお互いの演奏を聴きながら、より激しく速くやることを目指してました。ところがヨーロッパのフリージャズの連中は、フリージャズなんだからもっと自由であるべきだと。で、僕たちを評して「あいつらのやってることはそんなにフリーじゃない。きっちり構成されてる」と言うんです。僕らは、アタマにテーマが出てきて、中はグチャグチャにやるけど、またテーマに戻ってピタッと終わるでしょ。それが僕らの美意識だったんです。ところが連中はとても論理的で、フリーなんだから始まりも終わりも決めちゃダメだと。そういう人たちもいました。いつともなく始めて、終わりも合図で決める必要はなくてダラダラと終われば、それが一番フリーな演奏だと。そう言われたこともあります。

──そのへんの違いは、日本人の特性と言いますか、起承転結の意識とも関係あるかもしれませんね。

山下 そうそう。特に僕は、いくら何を言われても、始めと終わりだけはビシッと決めるのがカッコいいと思ってましたからね。だから何をやってても必ず最後には、ドラムが合図を出せよと、これが出たらこうやって終わるんだということは決めてありましたね。

──75年いっぱいで森山さんが抜けて小山彰太さんが入って、第3期トリオになりました。彰太さんは学生時代からジャズを演奏してきた、森山さんとは違う経歴の方ですが、山下さんが声をかけて迎えたんですか?

山下 大阪のジャズクラブ、インタープレイ8からスゴく良い評判を聞きましてね。池田芳夫さんのバンドで行った時に一晩中、ジャム・セッションしたらしいんですが、やおら上半身を脱いで一晩中、叩きまくってスゴかったという伝説になってたんですね。そんなことを聞いてすぐ頼みに行きました。

──彰太さんが入った76年のヨーロッパツアーでモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演して、しかもこの年は30カ所で演奏したという記録があります。

山下 ヨーロッパのマネージャーにドラムが替わったと言ったら、何も言わずに受け入れてくれました。森山のスゴさはヨーロッパではとても印象づけられてまして、74年のメルスで大成功した翌日の新聞の写真は森山でしたからね。当時はみんな、森山がリーダーだと思っていた(笑)。いちばん大暴れするわけですから。それがいなくなってどうなんだというのはあったんですが、それでもヨーロッパではそのまま受け止めてくれました。

──森山さんのドラムは、スピード感もスゴいけれど基本的に重厚なイメージがあったんですが、彰太さんのドラムはスピード感が勝負で、しかもフロントが坂田さんということもあって、歴代のトリオの中で最もパルスが強調されていた、そんな印象があります。

山下 その通りだと思います。軽快にスピードでぶっ飛ばしていくという。

──この年のヨーロッパから戻った後、麿赤兒さん率いる大駱駝艦の公演『嵐』の音楽を担当。トリオ+ジェラルド大下(サックス他)で演奏し、ライヴ盤も発売されました。

山下 麿さんとはずっと親しかったけれど、一緒にちゃんとやったのはこれだけだったんじゃないかな。そうそう、『嵐』の公演の前、僕らがピットインで演奏していた時に麿さんの子分の人たちがフンドシ姿で踊りこんできたことがあって、それをまたホルストが目撃して驚いてました。なんていうことだと(笑)。

──その後も毎年、ヨーロッパツアーを行ない、79年には初めて渡米してニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演しましたが、この年いっぱいで坂田さんが抜けて武田和命さんが入りました。武田さんとは60年代、トリオの結成前に共演していて、79年に10年ぶりに再会して再び共演が始まり、トリオの第4期を迎えたわけですが、翌年には林栄一さんも加わり、トリオ+1の編成になりました。林さんとも久々の再会だったんですね。

山下 林と初めて会ったのは、僕が病気する前、カルテットでピットインに出ていた時で、バンドに飛び入りしてきました。その頃の林は高校生で、詰襟の学生服を着てましたからね。

──第4期のトリオ+1時代にもヨーロッパツアーがあり、国内では2年連続、新宿コマ劇場でリサイタルを行ない、筒井康隆さんの芝居『ジーザス・クライスト・トリックスター』の音楽を山下さんが作曲し、トリオ・プラスワン全員が芝居にも出演。そして83年の大晦日から元日にかけてのジャズ・フェスでの演奏をもって、山下洋輔トリオは解散ということになりました。

山下 そのあと、僕は85年に一人でアメリカツアーをして、一人でもやっていかなければいかんという決心をしたり、86年には最初の「ラプソディ・イン・ブルー」をやり、80年代の終わりにニューヨーク・トリオを結成しました。

──去年、ニューヨーク・トリオの結成30周年コンサートを聴きましたが、ここまでお話をうかがってきた山下洋輔トリオの歴史は、足掛け15年しかないんですよね。そう考えると、なんと濃厚、濃密だったことかと。

山下 すごいです、このトリオの時間は、一番ですね。

──84年から現在までの35年間、山下さんはソロ・ピアノ、ニューヨーク・トリオをはじめ、様々な形で幅広い音楽活動を続けていますが、山下さんにとってバンド編成でのフリージャズは、往年の山下トリオに全て集約される、というお考えですか?

山下 まあそうですね。フリージャズをさんざんやった後にニューヨーク・トリオを持って、グループを作る嬉しさが蘇りましたね。また日本のプレイヤーとも一緒に、いくつかのグループを持っているという状態です。フリージャズをやる前のやり方と言いますか、ニューヨーク・トリオでまた培ったやり方と言いますか、なにも全編フリーでなくてもいい、というふうにも考え出しまして。今やりたいことをやればいいではないかと。老人的考え方でしょうか(笑)。キレイなバラードがあればそれを弾いたり、何をやってもいいというのがフリーだ、というような考え方になってると思います。今は。

──2009年の夏、日比谷野外音楽堂で行なった結成40周年記念山下洋輔トリオ復活祭は、亡くなられた武田和命さん以外の歴代メンバーが全員集まって、トリオの歴史を第4期から第1期までさかのぼるという構成でした。今回の「爆裂半世紀」も歴代メンバーが揃いますが、ゲストの方々もいらっしゃるので、今までのお話に出てきたような、違った分野の方々と山下洋輔トリオとの交流も、ステージで繰り広げられることになりますね。

山下 ええ、やります。楽しみです。具体的なことはこれから考えますが、なんでもあり、という気持ちがしています。