渋谷公会堂物語 〜渋公には伝説という魔物が棲んでいる〜 序章-前編- 語り手:(株)ディスクガレージ 中西健夫

コラム | 2018.02.05 18:00

提供:渋谷区

序章 〜前編〜
中西健夫(一般社団法人 コンサートプロモーターズ協会会長 / (株)ディスクガレージ 取締役会長)

渋谷公会堂は、東京にある数々のコンサート・ホールのなかでも唯一無二のステイタスを持ったホールだ。だった、と言うべきかもしれない。多くの伝説をまとった、かつての渋谷公会堂という建物は今は無く、2019年5月予定の新装オープンに向けて、建て替え作業が進められている。
この連載では、1980年代に入るまではいくつかある公共のホールのひとつでしかなかった渋谷公会堂が、数多くの伝説的なライブを生み出し、やがて“ロックの殿堂”とさえ言われるまでになった軌跡とその実相を、様々な立場でそこに関わった人たちの証言を通して浮き彫りにしていく。
第1回は、レベッカやBOØWYのコンサート・プロモートを担当するなどして、渋公伝説が生み出されていく多くの現場に立ち会い、また現在はコンサートプロモーターズ協会(ACPC)の会長として、コンサート・ホール環境の改善、ひいては新しいレガシー作りにも取り組んでいるディスクガレージの中西健夫氏に、1980年代の渋谷公会堂にまつわる様々な記憶と今後に向けての展望を語ってもらった。

──「渋谷公会堂はロックの殿堂」という位置づけはいまやまぎれもないことだと思うんですが、でもコンサート会場として使われ始めた当初からそういうイメージではなかったと思うんです。中西さんも、仕事を始められた時には、公の会館のひとつということでしかなかったと思うんですが、だんだん気づいていった感じなんですか。ここはなんかちょっと違うな、と。
そうですね。当時、渋谷公会堂で印象として一番大きかったのは、ドリフターズだと思うんですよ。
──「8時だョ!全員集合」ですね。
そうです。渋谷公会堂って盆が回るんですよ。ステージの中にお盆があって、それが回転して、また違うステージが出てくるじゃないですか。あれが僕らの最初の渋谷公会堂のイメージだと思うんです。みんなテレビ見て、渋谷公会堂と言えばドリフターズ、みたいなイメージをすごく強く持ってて。その後も歌番組かなんかやってたじゃないですか。
──日本テレビの番組ですよね。
だから、音楽というよりも、ドリフターズとか、歌謡曲番組を公開放送する場所。そのイメージが、1980年代のアタマぐらいだと思うんです。ただ、あれが生放送だったというのは、今考えたらとんでもないことですけど、それは裏返しで言うと、必然的にあの会場が番組の生放送に結構使われているっていうことなんですよね。「8時だョ!全員集合」と歌番組は時期的に被ってたのかな?ちょっと覚えてないけど、被ってたら週2日は使えないわけじゃないですか。で、だいたい月曜日って休んでたりしてたから、そんなにライブをバカバカやるっていうイメージじゃなかったのが最初だと思うんです。当時、コンサート会場としては、新宿厚生年金会館(新宿区)、中野サンプラザ(中野区)、あと五反田(品川区)。
──ゆうぽうと(簡易保険ホール)ですね。
それから、郵便貯金か。
──芝の、今はメルパルクホール(港区)ですね。
そう。それに日本青年館(新宿区)ぐらいか。
──そうですね。
そういうなかで、多分最初に渋谷公会堂で3DAYSとかやったのが浜田省吾さんだったんですよ。それ資料あります。その時のことは僕、よく覚えてて、すごくいいなあと思ったんですよね。空間が。厚年とかサンプラより、すごくロック的な感じにすごく合う会場だなって。そう思ったのが、その浜田さんのライブ…。1984年かな。僕の中で渋公インプットがそこでされて、何か事あるごとに渋公やりたいっていう気持ちのきっかけになったライブですね。

浜田省吾 1984年2月13日(月)14日(火)15日(水) 渋谷公会堂3DAYS開催時の先行予約DM

──世の中ではまだ芸能界のイメージが強かった時期に、中西さんは“ロック小屋”としての印象がすごくピンときちゃったわけですね。
強いんです。で、あそこはものすごく凝縮された作りをしてて、空間が狭いんですよ。1階のキャパが約1300席ぐらいで、2階が約1000席くらいなんですよ。2階の1000席ってすごいボリューム感じゃないですか。それを僕はすごく感じて、すごくいいなと。やるほうからしても、うわーっと迫ってくる感じだって。そういう声もよく聞いたんで、これはいいなと。ということで、当時は渋谷公会堂をどう取るかっていうのに命をかけてましたね。
──なるほど。BOØWYとかレベッカのライブがロックの殿堂のイメージを作っていった以前に、中西さんは“ここはロック小屋だ!”という意識のもとで、そこに合うようなアーティストをどんどんブッキングしていった。そういう順番だったんですね。
それともうひとつは、モチベーションの問題で、渋公の向かいにあるegg-man(1981年オープン。オープニングライブは桑田バンド。キャパ350人のライブハウス))でよくやってたじゃないですか、当時は。だから、「目の前でやりたくないか?egg-manから卒業して」というようなモチベーションはみんなすごくありましたね。例えばレッド・ウォーリアーズはegg-manでずっとやってたわけですけど、「ユカイさ、やっぱあそこでやんなきゃだめじゃん」みたいな。そんな話は良くしてたんで。ステップアップのモチベーションとして、目の前に渋谷公会堂がそびえ立ってて、その道路を挟んだところの地下で、300人ぐらいのライブをやってるっていうのが、すごくいい感じだったんですよね。で、「渋谷公会堂やったら、次は武道館だよ」というような。だから、どっちかと言うと、「レコードを10万枚売りましょう」とかいうよりも、「ここに行って、次はこのステージ踏みたいよね」みたいな。そういう話、というか刷り込みをした覚えがあります。
──そういう刷り込みで、アーティスト側にも渋公をやるということがひとつのステータスになっていった、と?
刷り込まれていって、それで成功例が出てくると、「やっぱり渋公って聖地だよね」みたいな話にどんどんなっていく。それで最終的に殿堂化したのは、「TVK PATi PATi TOMATO」だったんですよ。ずっとコマ(新宿コマ劇場)でやってたんですけど、コマでできなくなった時に、渋公でやりましょうっていう話になって。12月31日の渋公取るのってほんとに大変だったんですけど(笑)、あそこで数々のアーティストが「渋公に出れるんだ」ということでキャスティングができたわけなんです。
──「PATi PATi TOMATO」を渋公でやるようになったのが89年ぐらいですか。
年代は定かじゃないですけど、80年代はずっとコマでやってて、そのあと渋公でやったっていう記憶がありますね。
──浜田省吾さんで最初にピンときて、その次はハウンド・ドッグですか?
ハウンド・ドッグはとにかく、“なんとかDAYS”にこだわってるバンドだったんで(笑)。でもやっぱり渋公がいいよって話で、渋公5DAYSやろうよ、みたいな。そういうふうに、できる/できないじゃなくて、5日間やるんだ、みたいな。当時“DAYS”っていうのが流行ったんですよ。流行らせたのかもしれないけど(笑)。
──(笑)、これは武道館の話になりますけど、客観的に見て「まだ無理なんじゃないか?」みたいな段階で、先に「やる」と宣言して、それによって人を集めて「ほらできたじゃん」という仕掛けもけっこうありましたよね。
そうです。同じようなことで言うと、じつはBOØWYの最初の渋公は完全には売り切れてないんです。でもソールドアウトって出しちゃいました(笑)。“渋公ソールドアウト!”というのが、なんかすごく心地いい響きだったんですよね。だから入らないアーティストでも、渋公をどういうふうに戦略的に使うかということを考えてましたよね。あるバンドは、1000人ぐらいしか入らないだろうなと思ったんですよ。で、ひと席おきにチケットを売って、その隣の席には赤いバラを1本ずつ置いたんです。「誰かの何かを思ってください」みたいなことで。そうすると、1000人は売れて、1000人はバラなんですよね。で、「売り切れです」みたいな(笑)。そういうことをよく考えて、楽しくってしょうがなかったですね。
  • 兼田達矢

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    兼田達矢

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