第9回 語り手:LAUGHIN’ NOSE
ぶっちゃけどうでもよかったんですよ。ホールも面白いなって。偉そうですよねえ(笑)(Charmy)
──ラフィンノーズの渋公は89年が最初ですか。
Charmy(Vo)昔のことは記憶が定かじゃないんですけど(笑)、「SOSツアー」が最初だと思います。
PON(Ba)86年か87年が最初ちゃう?89年は「ミート・マーケット」が出た後やで。
Charmyそうか。ラフィンがメジャーでデビューするちょっと前(85年)に日比谷でやったんですね。そしたら、びっくりするくらい人がいきなり来ちゃって。それで、その流れで渋公ちゃうかったっけ?はっきり憶えてないですね。そのときはただ「やっちゃえ!」だったから(笑)。ぶっちゃけ、渋公なんて、どうでもよかったんですよ。ホールも面白いなって。偉そうですよねえ(笑)。
──ただ、空間が違うと、空気も違うし、やり口も変わってくるのかなという気もするんですが。
Charmyあの頃は、「ライブハウスもホールも違わないよ。同じ、同じ」と言ってましたよね。今でも「同じ」と言いそうな気もするけど(笑)。やることは同じだから。自分のなかでの、満足できるかどうかのポイントもどこでやろうが変わらないですからね。
──日比谷野音にいきなりたくさんのお客さんが詰めかけたという話がありましたが、お客さんが増えていくことについてはどんなふうに感じていましたか。
Charmyそれは、ワクワク感がすごくありました。
──ただ、そういうお客さんのなかには、ライブハウスによく通っている人やレコードを毎月買っている人、とは違う層の人たちも“なんだか面白そう”という感じで集まってきた人たちも少なくなかったと思うんですが…。
Charmyそうかもしれないけど、でも“なんだか面白そう”って人が集まってくるというのはすごく大事だと思いますよ。
──だから、当時もそういう人をいかにちゃんと巻き込むかということを考えていたわけですか。
Charmyそうですね。
──当時、学生でライブハウスに通っているような人は、教室で言えば真ん中より後ろの、しかも端っこのほうに座っているようなタイプのコが多かったと思いますが、当時のラフィンノーズのお客さんもそういう感じの人が多かったですか。
PONいや、むしろウチのお客さんは、いまの話で言えば教室の真ん中あたりに座ってる感じのコが多かったんじゃないですかね。当時の同世代ハードコアパンクのライブには思いきりサブカルな感じのコが来てましたけど。いまも、特にロックな感じではない、ただのおっちゃんがけっこう来るんですね(笑)。それが、俺は楽しくてうれしいですけど。
──ラフィンノーズも、一人でライブハウスに行くというタイプじゃないコが多かったですか。
PONそう思います。BOØWYとかとけっこう重なってたんじゃないですか。アナーキーまでは行かないけど、けっこうトッぽくて、“いまはパンクがええぞ”みたいな感じのコたちですよね。
Charmy教室の端っこに座っているようなコが多いんじゃないかと思われていたのはよくわかります。僕が、いつも窓際のいちばん後ろに座っているタイプでしたから(笑)。
欲しいものが売ってなかったら、自分たちで作るしかない(Charmy)
──(笑)。80年代中盤に、インディーズでやってしまうという発想も教室の端っこタイプの発想ではないですか。
Charmyそれは結局、「なかったら自分で作っちゃえ」ということですよね。パンク・ファッションも同じですけど、欲しいものが売ってなかったら、自分たちで作るしかないっていう。その気持ちが最初からあって、それでずっとやってきてるから、グラグラせずにやってこれたんじゃないかなと思いますね。
──そういう意味では、渋谷公会堂というホールは、80年代の後半になると、もうロックの殿堂としてかなりステイタスが確立された感がなかったですか。
Charmyとりあえず、特別な場所ではあったと思いますよ。登竜門のひとつというか。僕は武道館には興味なかったけど、渋谷公会堂はやんなきゃいけなかったと思ってます。日比谷野音もそうなんですけど、ラフィンノーズにとってやらなければいけなかった場所だと今でも思っています。そこには、運命的なタイミングというのが絶対あるから。日比谷で事故があって、そのあとの復活ライブも東京は渋公でしたけど、それも運命ですよね。
──武道館じゃなくて野音と渋公、というのはなんとなくわかる感じがします。
Charmy正直に言って、武道館でやる話も当時あったんです。でも、僕が興味なかったから。
渋公を超えたら俺らはまともになるんやっていう、渋公はそういうポジションやった(PON)
──渋公は登竜門、というイメージはどこから出てきたんでしょう?
Charmyわかんないですけど、みんなそういうふうに思ってたんじゃないですか。日比谷野音については、僕はCAROL/矢沢永吉世代ですから、CAROLの解散ライブと矢沢永吉のソロ・デビュー「帰ってきたぜ!」というのがバリバリに刷り込まれてますからね(笑)。それで、僕らも野音をやって「次は渋公!ガンガン行くぜ!」という感じだったんですよね。やらなければいけない、と思ってたんです。
──その「やらなければいけない」感というのは、例えば男の子が男になるための通過儀礼みたいなことでしょうか。
PON俺らの場合はパンク・バンドやったから、野音でめちゃくちゃやって目立って、それでメジャーをまっとうしようと当時思ってたんですね。「チェッカーズになるぞ!」みたいな。そのための禊の場所やった気がしますね。渋公を超えたら俺らはまともになるんやっていう。渋公は、そういうポジションやったような気がします。
Charmyだから、渋公を初めてやって成功したときに、当時のマネージャーと僕はめちゃハグしましたから(笑)。
渋公をやってなかったら、今ラフィンはやってないと思います(Charmy)
──(笑)。ステージをやってるときのことで何か憶えていることはありますか。
Charmy憶えてないかなあ。すごい偉そうでしたからね(笑)。「渋公がなんぼのもんじゃい!」という感じでやってましたから。「いちばん後ろまで埋まってるな。よぉし、ここからや!」って。でも、それは僕らだけじゃなくて、当時の音楽をやってる連中はみんな「渋公がメジャーの一発目」というふうに思ってたと思いますね。
──そういう場所をちゃんと通ってきたから、Charmyさんの言い方で言えば今も「バキバキに」ラフィンをやれてるんでしょうね。
Charmyそう思います。だって、普通のパンク・バンドだったら渋公なんてやらないですから。渋公をやった時点で、ラフィンノーズはただのパンク・バンドではなくなりましたから。それは、「いい意味でも、悪い意味でも」と受け取られたけど、僕は100%いい意味でしか考えていません。今現在も。当時、いっぱい文句を言われたけど、僕は正しかったと思っています。渋公をやってなかったら、今ラフィンはやってないと思います。渋公をやって、それで特別なバンドになっていったから、僕は今もラフィンをやってるんです。